韓国の宿痾は、「事大主義」

 

尹錫悦大統領は、政治家である前に法律家であり、

法律家であるが故に、

国際協約や条約を順守することを最優先に考えて居るのだろう。

 

国際条約や協約を順守することが、韓国が自由主義陣営に留まる

“必要最低条件”であることも熟知しているはずである。

 

しかし現状の韓国は、現状認識の違いから

米国以上に二極対立が際立っている。

 

韓国人の意識を変化させることができるかどうかが、

明日の韓国、韓国の将来の鍵であるのだが、

アジテーターの能力に欠ける尹錫悦には“至難の業”であろう。

 

【コラム】韓国外交の宿痾「恐中症」は治せないのか

朝鮮日報online 1126() 

 サッカーに「恐韓症」という言葉があった。唯一韓国サッカーにだけは参っていた中国が腹立ち半分、ねたみ半分で使っていた表現だ。韓中間の国家代表Aマッチが初めて行われたのは1978年のことで、以来32年間、韓国と27回当たって01611引き分けを記録した。中国の初勝利は2010年の東アジア・カップで実現した。

 

   「たかがサッカー」と言っては失礼なのだろうが、現実はたかがサッカーである。

1992年、ブラジルの県人会を訪問する途次、トランジットでコスタリカに数時間滞在し、街中で昼食を摂った。

その際、レストランのTVWCUPの試合を放映しており、現地の客が大騒ぎしていた。

昨日の試合の前、そのことを思い出して日本はコスタリカに負けるのではないかと思ったが、それが何ほどの事かと思い直した。

 

 そのころ、中国はサッカーだけでなく多くの分野で韓国に対し恐怖に近い感情を抱いていた。数百年にわたり朝貢をささげてきた後進の農業国で、20世紀の半ばまでは植民収奪と戦争で荒れ地となっていた韓国が、「漢江の奇跡」を起こしてオリンピックまで誘致したことに、ショックと同時にうらやましさを感じた。だから朴正煕(パク・チョンヒ)の産業化公式をそのまままねた。鄧小平は「朴泰俊(パク・テジュン、製鉄大手ポスコ設立者の政治家・実業家)を輸入しろ」とも言った。

 

   鄧小平は、韓国の現代化が日本の協力で為されたことを熟知していた。

ポスコの朴泰俊は、新日鉄の社長(当時)の稲山嘉寛の指導を忠実に実行したに過ぎないことも鄧小平は知っていた。

「知らぬは韓国人ばかりなり」である。

 

鄧小平は、“国賓”として訪日した際、米国の政治的陰謀で政界を追放されていた田中角栄の私邸を訪問した。

中国の、鄧小平に改革開放の“師匠”が田中角栄であったからだ。

 

  そんな流れが、江沢民・胡錦濤を経つつおよそ30年続いた。韓中間の物的・人的交流は年を追って爆発的に増加した。一時、北京の現代自動車工場、広東省のLG電子工場は中国の若者が最も好む仕事場だった。この30年が、韓民族5000年の歴史を通して、中国にひるまず堂々とできた唯一の時期だったのだろう。

 

   韓国の政治家は、米国の陰謀によって朴正煕は“暗殺”され、田中角栄は政治生命を絶たれたことを知っており、

その故に、中韓国交回復は、日本に遅れること“20年”に及んだ。

 

1990年代の中国は、高級で高価な日本製品より、安価な中級品の韓国製品を欲していた。

双方の欲求が合致していたその後の30年であったという事だ。

 

  2010年ごろは、そんな雰囲気の最高潮だった。同年3月、当時のケイ海明・駐韓中国公使参事官は朝鮮日報に「中国の発展は韓国にとってチャンスだ」というタイトルの寄稿記事を送ってきた。全ての文章が「~です」で終わる、およそ1200字の完璧な敬語体の原稿だった。ケイ氏は「われわれは両国関係を大切に扱わなければなりません」と、謙遜して語った。

 

   漢民族は、ある意味“思索・思惟の民族”である。

鄧小平は“不倒翁”と称されるほど艱難辛苦を舐めた人物であり、“臥薪嘗胆”を実行できた人物である。

当時の駐韓大使館・関係者は鄧小平を見習っていたのであろう。

 

  韓中関係は、そのころからきしみ始めた。中国は、北朝鮮による哨戒艦「天安」爆沈挑発をかばってやった。延坪島砲撃挑発のときも同様だった。後継者として修業中だった金正恩(キム・ジョンウン)が主導した挑発だった。金正日(キム・ジョンイル)に大胆さを印象付けた金正恩は、同年9月に後継者として公式に登場した。

 

   1992年の中韓国交開始から20年間で中国は、韓国の産業技術の殆どを習得した。2010年代に、中国は韓国に追いつき、2020年代の今日、少なくない分野で韓国を“追い抜く勢い”を見せている。

金正恩の北朝鮮は、その様な中韓関係を凝視していたという事だ。

 

  当時、中国の次期指導者は習近平副主席だった。習近平は625参戦老兵らと対面して「偉大な抗美援朝戦争(625の中国式表現)は平和を守り、侵略に立ち向かった正義の戦争」と言った。国際常識と懸け離れていただけでなく、韓国に全く配慮しない妄言だ。だが、中国の本音だった。輝かしい交易の成果に浮かされ、あえて見ないようにしていた「不都合な真実」だった。

 

   毛沢東は敢えて“孤立”を選択し、

鄧小平は“臥薪嘗胆”を「韜光養晦」と表現し実行した。

 

胡錦涛や江沢民は鄧小平の方針を継承したが・・・

習近平に至って「韜光養晦」の必要性を失ったという事なのだろう。

 

それが正しい選択であるか、誤った選択であるかは、我々は、数年後に見ることができる。

 

そうして登場した習近平は中国の夢を叫び、中国を毛沢東時代に引き戻した。集団指導体制が崩れ、改革・開放は退潮した。韜光養晦(とうこうようかい、能力を隠して力を蓄えること)は沈んでいき、戦狼(せんろう)外交が本格化した。北京では王毅外相、ソウルではケイ海明大使の言行が日に日に荒っぽくなった。米国や西側はけん制路線へと進んだが、韓国はぐずった。もしかすると最大の市場を失いかねないという恐怖、北朝鮮の非核化と統一への協力を得られなかったらどうするかという心配を振り払えなかった。

 

   レーニンであったかスターリンであったか定かではないが、共産主義者は、「資本主義者は、自分の首を括る縄まで販売する」と“嘲笑”したという。

今日の韓国民の対中姿勢や、日本の無節操な経済人の対中姿勢は、将にその言葉通りである。

 

 だから朴槿恵(パク・クンへ)元大統領は、米国からにらまれつつも天安門の門楼に上り、中国の戦勝節の軍事パレードを見守ったのだろう。習近平の回答は、無慈悲なTHAAD(高高度防衛ミサイル)報復だった。文在寅(ムン・ジェイン)前大統領は、訪中時に取った10回の食事のうち8回が「一人飯」だった。恥をかかされても「中国は高い峰、韓国は小さな国」と言った。事情は違ったが、両大統領とも中国に対する迷いを捨てられなかった。韓国外交官の間に、恐中症が伝染病のように広がった。

 

   朴正煕や全斗煥・盧泰愚は、韓国が西側陣営に在ることが韓国にとって有益であることを熟知していたが、朴正煕は、米国からの独立(核兵器保有)を企図したことが災いして“暗殺”された。

 

それを知る全斗煥は日本(中曽根康弘)と手を握り、日韓が一体となることで対米関係を有利に導いた。

 

つまり、韓国の保守派の政治家は、対中傾斜の「事大主義」を反省し自らの政治指針としていたが・・・

金大中以後の大統領は、李氏朝鮮と同様な対中傾斜の「事大主義」の信奉者であったという事である。

 

  今年10月の中国共産党第20回党大会は、習近平が自らの終身政権を祝う手続きだった。一段と露骨に反民主と反市場へ退行する、という宣言だった。先日の「力による現状変更はいけない」という尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の発言は、中国に対する警告のように聞こえた。だが、そのわずか半月前に韓国は、自由民主陣営50カ国が国連で中国のウイグル人権弾圧を糾弾する声明を共同発表したとき、ただ1カ国そこから手を引いた。恐中症が宿痾(しゅくあ)と化したらしい。大統領の一言で治せるのか、確信は持てない。

 

   イソップ童話に、「卑怯な蝙蝠」の話がある。

 

現時点で見れば、世界第二の経済規模を持つ中国の独裁権を握った習近平と彼の統治する中国が、

国論が二分された状態のバイデンの米国より見かけは強力に見えるが・・・

 

「ウクライナ戦争」の教訓は、自由主義国の連携は未だ“最強”であるという事である。

 

それを体感する日本は、自由主義国の国際協約「ワッセナー・アレンジメント」や「日韓条約や協約」を遵守し、

世界情勢の認識が甘い韓国は、「国際条約や自由主義国間の協約」を平然と無視するという事である。

 

≪蛇足≫

自由主義陣営に属して反映してきた我々日本人は見落としがちだが、

世界の現状では、自由主義者は“少数派=マイノリティー”である。

その有様は、共産党が独裁する中国が、「国連」に在って多数を占める統制国家の支持を集め、国連の各委員会を牛耳っていることで見て取れる。

残念至極ながらそれば現実である。

 

だからと言って、日本人は中国に与することはない。