中国の中央民族大学が出した「中国民族誌」には中国国内56民族の特性が書かれている。朝鮮族は最終章に登場する。冒頭の文章が好意的だ。「朝鮮族は勤勉で勇敢である」。ほかの民族の章は「中国のどこどこで長く暮らしてきた」という文で始まる。朝鮮族の新聞「黒竜江新聞」は2011年の新年の社説で「朝鮮族は半島の同胞と同じく先祖の賢明な気質を受け継いでいる上、中国の遠くを深く見る品性も習い、身に付けている民族だ」と自らを評した。
日本在住の朝鮮族学者・金文学氏は、国際的な変貌を遂げた朝鮮族を「新朝鮮族」と呼んだ。朝鮮族85万人が中国でなく国外で暮らしているというのだから大げさな話ではない。このうち約20万人は韓国ではなく日本・米国・カナダに生活の場を移した。朝鮮族を取り上げた本「満州アリラン」はこうした変化を延辺の詩人・石華氏の詩で隠喩した。「リンゴでもないものが/ナシでもないものが/一つの果実として熟そうとしている」。
きのう、与党代表が朝鮮族を大量に受け入れようと主張して批判を浴びた。少子化対策としてそうした話をしたためだ。「国内で出産を増やすべきなのに、移民で補おうというのか」という批判のほか、「朝鮮族は子を産む機械か」という非難まで飛び出した。だが、これは世の中のことをよく知らない人の言葉だった。彼らにとって「多産」はとうの昔からぜいたくなことだった。2013年の人口1000人当たりの出生数は6人で、韓国の8人よりも少ない。少子化は韓国よりも先に朝鮮族にとって死活問題だった。
だからといって、笑って済ませられるような話でもない。日本により韓半島(朝鮮半島)収奪で追いやられたり、満州の開発で連れて行かれたりした植民地の民が彼らの祖先だ。植民地を拒否し、体一つで凍土行きを選んだ独立闘士の子孫もいる。米国や日本に行った同胞とは違い、多くの朝鮮族が解放(日本の終戦)後、自由民主主義を選択する機会すら封じられてしまった。我々がうまくやってさえいれば、今ごろ韓国の国民として苦楽を共にしていたはずの人々だ。朝鮮族受け入れは、少子化ではなく民族統合の課題として扱うべき事案ではないだろうか。
韓国人による朝鮮族差別と蔑視を書いた朝鮮族作家の本「韓国はない」が衝撃を与えたのは20年前のことだ。朝鮮族は韓国映画『新しき世界』(2013年)で「延辺乞食」と呼ばれ、朝鮮族社会は映画『哀しき獣』(10年)で狂乱的殺人が横行する無法地帯として描かれた。また、彼らの話し方がお笑い番組に登場する振り込め詐欺犯の話し方として使われるようになって久しい。だが、彼らの犯罪の頻度は韓国の平均以下だ。そのような扱いをしていたのも忘れて、今になって少子化問題でまで朝鮮族うんぬんと言うのだから、韓国人は本当に恥知らずだ。
朝鮮族の新聞「黒竜江新聞」は2011年の新年の社説で「朝鮮族は半島の同胞と同じく先祖の賢明な気質を受け継いでいる上、中国の遠くを深く見る品性も習い、身に付けている民族だ」と自らを評した。
朝鮮族は、「半島の同胞と同じく先祖の賢明な気質を受け継いでいる」と言うが、朝鮮半島の先祖が賢明な気質を持っていたということを受け入れるとしても、社会制度が優れていたのなら、朝鮮族が祖国を捨て海外に望みをつなぎ半島から流出するはずはなかったのではないか。
朝鮮族85万人が中国でなく国外で暮らしているというのだから大げさな話ではない。このうち約20万人は韓国ではなく日本・米国・カナダに生活の場を移した。朝鮮族を取り上げた本「満州アリラン」はこうした変化を延辺の詩人・石華氏の詩で隠喩した。「リンゴでもないものが/ナシでもないものが/一つの果実として熟そうとしている」。
現代中国の社会体制も、朝鮮族にとって望むべき社会制度ではない証拠が、85万人の中国以外の在住者の存在ではないか。しかも彼らのうち20万が先祖の祖国・韓国以外に在住ということは何を意味するのか。
彼らにとって「多産」はとうの昔からぜいたくなことだった。2013年の人口1000人当たりの出生数は6人で、韓国の8人よりも少ない。少子化は韓国よりも先に朝鮮族にとって死活問題だった。
労働集約型社会では、「子沢山」は豊かさの基本であった。